完全固有名 ABSOLUTE PROPER NAMES 1994 Furuya Toshihiko |
二本のさざんかの樹のすべての葉に名前がつけられている。二本のうちの一方にはラテン文字による名前、もう一方には片仮名文字による名前が使われている。これらの名前は、電算機を使って文字を無作為に並べる手続きによって作られている。電算機は全く意味を持たない名前を、毎分七百八十個の速度で印刷する。あらかじめ用意された名前は、ラテン文字と片仮名文字によるものが各々二万個以上であり、これは個別的機能の大量生産を意味する。もはや一つ一つの名前にじっくり関わっている場合ではないが、しかしながら一つ一つのさざんかの葉は確実に個別化されている。
名前は通常言葉の元々の意味とは関係なく使用される。名前として機能させるために、元々意味があるかどうかは問題にならない。むしろ、名前として通用するということは、その名前がたとえ意味のある言葉によるものであっても、元々の意味から切り離され、ある特定の個別的な対象との交換を保証するようになり、言葉の意味とは全く関係のない偶然的な全く別の意味を持ち始めるということなのである。命名の手続きは、従って、意味の消滅、対象の個別化、そして新しい意味の発生という三つの付随的な作用を伴っている。そこで、意味を始めからなくして命名の作業を量的に処理することにより、命名によって起こる付随的な作用を先取りするならば、命名という現象の基底部から、言語機能の本質的な要素を取り出すことができるだろう。命名とは、意味のないところから意味が発生する過程であると共に、発生した意味に対して名前が常に優先している場であり、それは固有名の即物的な作用として量的に検証できるものでもある。固有名の大量生産は、一つの名前の内部での不明瞭な意味の定量化を完全に切り捨て、意味の発生の枠組みそのものを量子化することによって意味の振る舞いを外的に明瞭化するであろう。
命名の問題は、文化人類学に於いてトーテム論、婚姻論などで構造論的な研究が行われた。だが、それらの研究は命名の量や速度を扱っていない。そこでは、意味の発生と消滅としての命名の場ではなく、伝達の機能から構造を浮上させる二重の構造のみを扱っていて、命名を生産の技術とする命名技術の応用を扱ってはいない。この作品では、命名の量と速度、そして文字の性質の違いによる意味と無関係な形態論など、過去の文化への遡及だけではない未知の技術への展望が問題となっている。命名が純粋に対象の個別化だけに関わることになれば、固有名はその対象の個別性と完全にすり替わることになり、命名はそれによって完成する。大量生産による固有名は、命名の手続きの量的な拡大が可能になれば、完全なものとなる。そして、完全な固有名は、生産性と機能の問題から、固定性と停止の問題へと移行するであろう。 |