十九台の電算機が一斉にラテン文字とアラビア数字と片仮名文字による疑似文章を表示する。装置は、一台一台異なった疑似文章を毎秒一行くらいの速度で自動的に生成するように設定されているが、この疑似文章は意味のある文章ではない。生成の速度は、かろうじて視覚的に確認できる程度に調整してある。生成を加速すると元々の意味の有無は判明ではなくなる。意味の有無は、実際には狭く限られた範囲の速度の内部に於いてしか存在しない現象である。意味の有無は、空間的にも限られている。空間的な隔たりや遮蔽物によって、その現象そのものが消滅するのである。ここで表示される疑似文章は、時間的にも空間的にも圧倒的な場面で、完全な文章の大量生産を意味する。
印刷装置からは、間欠的に同じく意味のない疑似文章が打ち出される。紙の上の疑似文章は、電算機の画面の上に流れていく疑似文章とは異なった作用を持つ。紙の上では、視覚的な読解の速度よりも、量的な堆積の速度が主要なものとなる。そこには、紙の耐久性やそれに付随する保存性という、運動の速度の基準となる時間とは異なった時間が関与しているため、速度という概念そのものが変更をせまられる。 ここにおいて、文字の集積である歴史は、飛躍的に生産性を加速させることになる。
十九台の電算機のうち、十八台は、ラテン文字とアラビア数字と片仮名文字とに、それぞれ六台づつ振り分けられていて、文字の色が十分毎に一斉に入れ替わる。残りの一台は印刷機に接続されており、十分毎に文字が入れ替わる。三つの文字の内、片仮名文字だけが完全に音声的に可読であるが、ラテン文字とアラビア数字は、可読性に於いて全く不完全である。意味とは無関係に、文字の性質を比べてみれば、ラテン文字が音声を表していないことがよくわかるし、アラビア数字が普遍性を持たないこともわかる。だからといって、この音声的可読性が文字を決定的に性格づけるわけではない。これは、常時流れている文字連鎖の速度変化に伴う状態の変化のある側面を表しているに過ぎない。流動性と固定性の極端な対比が、意味や音声と文字との無関係をはっきりと検証するからである。
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