合成牛耕式循環固有名
SYNTHETIC BOUSTROPHEDONICAL CIRCULAR PROPER NAME
1999 Furuya Toshihiko


 この作品は、算術乱数を使って完全に機械的に合成された、全長112800文字の長さの名前である。これは、各々が56400文字でできた二本の並行して走る円環状の文字連鎖で成り立っており、上段が名字、下段が名前になっている。文字の選択は、日本人の名前約十万件分を無作為に抽出し、名字と名前で別々に統計を取り、漢字の使用頻度の割合を調べて作った漢字の頻度表に従っている。連鎖の構造は、いわゆるブストロフェドン式(牛耕式)書法、即ち右と左を文字の連鎖が往復する書法である。全体が円環構造になっているので、始まりも終わりもなく、一本の連鎖の二つの方向が両方とも成り立つようになっている。以上のような文字連鎖の構築の手続きは、すべて統計処理用のデータベースを組み込んだコンピューターのプログラムとして、一旦間接的に完成される。そして、そのプログラムが実行されることにより、一つの長い固有名が決定される。  この円環状の固有名は、両端と方向が決定されないということから、固有名の起源あるいは固有名の原型であると同時に、固有名の完成あるいは固有名の進化の最終形でもある。これは、固有名の言語的な手続きや機能をまだ持っていない未分化な形態であり、また言語的な時間性を超越した総合的な形態でもある。この固有名は、その長さによって、意味や音声や機能の流動性へと回帰することはなく、全体として限りなく固定したものとなる。例えば、ユダヤ神秘主義では、トーラー(旧約聖書のモーゼ五書)は、全体が一つの名前と見なされる。そして、名前は文字の流動性によって回転し、その回転の極限において無限なるものが現れると考える。文字は固定しているものであるが、その固定された状態での非決定は、ある程度の大きな規模で初めて完結する。ユダヤ神秘主義の手法の中には、神の名を文字の順列組み合わせの中から体現しようというものもあるが、トーラーのようなひとまとまりの文章を長い名前と見なし、口承伝達による流動性の側に名前の完成を見る考え方の方がより広く受け入れられているのは、名前の長さという問題が持つ重要性の故である。名前の長さによって、初めて流動性は固定性の内部へと封印され、両端と方向の非決定によって、更にその封印は完成されるのである。  長い固有名は、この作品では漢字を使用している。漢字の字の数が他の文字と比べて極端に多いことはよく知られている。漢字は他の文字のように文字の選択肢を限定することができない。この作品では、漢字を使用するにあたって漢字コード表の使用を避け、実際に存在する名前の標本を統計処理した実際の使用頻度を元に字を配分する方法を採っている。標本の範囲に限定された使用を基盤においている点では、これは暫定的な手法であるが、字の区別の数を限定する必要がないという点では、これは常に現時点での最良の方法である。つまり、頻度表には、常に加算的に頻度と文字を追加でき、標本の数と字の数は限りなく無限大へと開かれている。漢字において字の区別の数が多いということは、字の同定と区別が曖昧であるということでもある。しかし、このことは、現時点で使用された頻度表の中での問題に過ぎない。頻度表に基いて字の同定と区別は等価に再配分されるのであり、決定された連鎖の中にその問題はもはや存在しない。  文字の体系は、字の数を減らす方が合理的であると考えるのは、漢字以外のフェニキア文字起源の文字体系全般が使用されるときの傾向であるが、その反面、文字の切れ目を判明にするという合理性がそこでは重視されなかった。漢字の使用に関しては、それとは逆に文字の切れ目を優先させ、字の数を限りなく増やしてきた。時代を経るごとに数が増えるような文字は他にはないが、字の切れ目が漢字ほど自然に分かれる文字も他にはない。この文字が一字一字分かれているということが、漢字を特徴づける最も原理的な構造である。漢字以外の文字は、空白や区切り文字によって語を分けるため、文字は連鎖の方向性を限定した連続体としてしか現れない。漢字は、それに対して連鎖の方向が非決定である。従って、あらゆる方向へ強制的に連鎖させることが可能であり、また一次元連鎖の二方向を共に等価にすることも可能である。ただ、この原理を漢字以外の文字に拡張することができないわけではない。  漢字では一つ一つの文字に意味や音節が対応しているように見えるのは、字の切れ目が判明である状態と連鎖の方向が非決定である状態を別の方向から解釈したからに過ぎない。漢字は意味や音節に対応しているのではなく、字の切れ目が連鎖の方向性を交差させることにより、意味や音節を区切っているだけなのである。漢字はよく表意文字と言われることが多いが、従ってこれは間違いである。表意は単なる派生的な現象に過ぎない。漢字は、原理的な連鎖文字と見なすべきであり、この長い固有名は、その連鎖文字の構造を完成させようとしているのである。完成された固有名は、決定されてはいても命名を完了することはない。名指すことも読み上げることも永久に保留されたまま閉じられたこの固有名は、意味や事物へと付与される名前ではなく、その中へと迷い込むことだけしかできない名前である。